Interview

創立者インタビュー

創立者が語る 明産株式会社の黎明期


幼い頃から将来は技術屋になろう、
発明家と言われる存在になろうと決めていた。

木川:会長の生い立ちと明産を興すに至るいきさつを聞かせて下さい。

田原会長:私は昭和2年(1927年)、中国地方最大の大河、江の川(ごうのかわ)の上流広島県三次市(みよしし)に生まれた。幼い頃から機械仕掛けで動く物が好きで、また自分で何かを作るのが好きだった。それも他人の作った物を単に同じように作るのではなくて自分で創意工夫して作るのが好きだった。だから幼い頃から将来は技術屋になろう、それも単なる技術屋ではなくて発明家と言われる存在になり、会社を興したいと心に決めていた。

明産株式会社 創立者の故・田原義則会長に若手社員の木川佑一がインタビューしました。



急性肺疾患になってしまい、
死にかけたこともあった。

田原会長:旧制中学の頃は戦時色濃厚だった。ある日、全校大会が開催されて全学生の予科練受験が総員決議された。そのため級友の多くが予科練に志願していった。私も心が動いたが「飛行機乗りも必要だが優秀な飛行機を作る人間も必要なのではないか」と言う父の助言もあって思いとどまった。死をも覚悟して故郷を去って行った学友たちへのしょく罪意識もあって呉の海軍工廠(かいぐんこうしょう)に動員された時にはがむしゃらに働いた。そのせいで急性肺疾患になってしまい、死にかけたこともあった。

 その後、病気のことを隠して旧制大阪工専(現大阪府立大)機械科を受験したが何の間違いか合格し入学できた。卒業後は某製紙会社に就職した。ここでパルプの熱回収や薬品回収関係の設計に従事した。製紙業界は当時からエネルギーの利用に関しては極めて熱心であり、我が国最初の5重真空蒸発缶の開発など熱力学や流体力学のおもしろさを味わった。今で言うコージェネも存分に勉強できた。しかしここでもまた仕事にのめり込んでしまって肺を患い、3年近く故郷で療養する羽目になった。

 病気回復後、乞われて共栄板紙という滋賀県大津市の製紙会社に移ったが残念ながらここは2年で潰れてしまった。そして次は新大阪板紙に工場次長として勤めることになり、10年間働いた。工場建設や機械増設などに従事し、激務で盆も正月もない状態が何年も続いた。新大阪板紙時代に安宅産業の役員との交流が始まり、色々相談を受けることが多くなった。安宅産業は1904年に創業され、大阪を本拠地とする老舗の商社だった。当時日本の十大商社の一つだったのだが石油事業の失敗で昭和52年(1977年)に伊藤忠商事に吸収合併されて消滅してしまった。 この安宅産業の末期は当時大きな話題となり、松本清張が「空の城」という題名の小説にもしたし、NHKによって「ザ・商社」というタイトルでドラマも作られたほどだった。

旧制中学4年生の頃。出征する従兄弟(左)と共に。

旧制工専時代



明光製紙の再建を大成功に納める。

田原会長:それはさておき、安宅産業は製紙関連ではトップの商社であって傘下に数社の製紙工場を持っていた。静岡県富士市にあった明光製紙もその一つで経営不振に陥っていた。私は先の安宅産業の役員からこの明光製紙の再建を依頼された。そこで新大阪板紙を辞して明光製紙の工場長としてここ富士市にやって来た訳だ。昭和40年(1965年)9月のことだった。

 明光製紙では一部工場閉鎖を含む今で言うリストラを敢行した。また当時茶色一色しかなかったライナーと呼ばれる段ボール原紙に色を付けることを企画して白ライナーや色ライナーを開発した。私自身も営業の先頭に立って全国を回った。その甲斐あって明光製紙の再建は大成功を納めた。

 再建を進めながら明光製紙では原料である古紙の供給を円滑に行うために明光製紙事業協同組合を設立した。

 その核となる会社として明産を設立した。昭和42年(1967年)のことだ。この会社は当初明光製紙の明光をとって明光産業とするつもりだった。ところが当時同じ富士市内に明光産業という会社がすでにあることが分かった。そこで明光産業を縮めて明産とした訳だ。これをもって明産の設立としている。明産の英文表記はローマ字表記のMeisanではなくて英単語を組み合わせたMaysunとした。言うまでもなく Mayは5月を、sunは太陽を意味する。私自身も5月生まれであり、これは我ながら良いネーミングだったと思っている。「良い社名だ」と国内よりむしろ外国のユーザから褒められたものだ。

 ところで、明光製紙で7年を過ごした後、再建が完了したので私はそこを辞することを決心した。当時私は39才、既に人生の半ばに差し掛かっていた。この辺で行動を起こさないと幼い頃からの夢である「発明家になることと会社を興すこと」が実現できなくなると考えたためだ。明光製紙の仲間は私を引き止めた。しかし私の決心は固かった。そして役員を兼務していた明産をそのまま引き継いで製紙関連の機械設備開発を主な業務とする会社にした訳だ。

新大阪板紙勤務時代。二人の娘と共に。

明光製紙工場長時代

製紙業界の革命と称され、
投資効果ナンバーワンの装置だと大変喜ばれた。

木川:当社を興すことになったきっかけは分かりました。では当社の黎明期はどんな様子だったのでしょうか?

田原会長:明産は最初は私一人だけの会社でスタートした。そして少しずつ規模を拡大していった。場所は最初は明光製紙の中に置いたが、その後明光製紙の近所に事務所を構えた。

 最初は明光製紙向けのNCスリッターやカッターコントローラ等を作った。当初はエンジニアリングとして装置の開発に専念し、機械部品の製作は全て外部の専門会社に依頼した。後にファブレスなんて言葉ができてこういったやり方が認知されるようになったが当時は何でもその会社で作るのが当たり前だったから特異な会社に見えたかも知れない。このファブレスの考え方は今も続いていて機械部品の多くを外部で作っている。いわゆる「餅は餅屋に」という考え方でこれは今でも正解だったと思っている。ただし最も大事な組立、調整、試験は当時も今も自社内で行っている。

 当時のスリッターは幅合わせから刃先のオーバーラップ量や刃の接触圧などの設定全てが勘と経験に頼った職人芸が必要だった。そのため1回の巾替えで数分から数10分の時間をロスしていた。また機械を運転したまま手作業で行っていた訳だから危険な作業でもあった。それらを数値制御で自動化したのだから稼働率が上がり、製品の歩留まりも良くなって著しく生産性を上げることができた訳だ。NCスリッターには他にも上下刃の接圧制御、その他色々な試行錯誤があった。それを話し出すと長くなるのでこのくらいにしておくが、いずれにせよこうして世界で初めてスリッターの巾替え及びカッターコントローラによる流れ方法の変更を自動化したことは製紙業界の革命と称され、投資効果ナンバーワンの装置だと大変喜ばれた。またその功績に対して製紙業界のノーベル賞とも称せられる佐々木賞を受賞した。

発明大賞千葉発明功労賞を受賞。

木川:厚さ計を開発することになったきっかけは何だったのですか?

田原会長:厚さ計は最初に非接触型を開発した。それまでの厚さ計はベータ線やガンマ線といったいわゆる放射線を使った物だったので設置には免許が必要だった。だからユーザーから「免許が不要で精度の高い厚さ計がほしい」という要望を聞くことが多かった。そこで当社では免許不要の光と磁気を使った厚さ計を開発した。精度に関してはバックアップロールの残留磁気や組成の違い等を予めコンピュータに取り込み、それに基づいた計測をすることで対応した。この結果サブミクロンの精度を達成することができた。その後、被測定物を製造ラインから切り取ってきてオフラインで厚さを測定する厚さ計の開発も要望があった。これはオフラインで測るので接触式でも良いわけだ。そこで回転するロールの間に被測定物を挟む方式を採用した。測定原理はロールを空転して予めロールの回転要素を記憶することによって回転による不安定要素をキャンセルする方式にしている。

 厚さ計に関しては開発担当者のバックアップが私の主たる仕事だった。なお厚さ計は財団法人日本発明振興協会及び日刊工業新聞社主催の発明大賞千葉発明功労賞を受賞した。

相当な苦労があったが最後までやり遂げたことは
当社にとって大きな自信になった。

木川:当社にとって大きな転機となった出来事は何ですか?

田原会長:それは何と言ってもフィルム、偏光板、フレキシブル基板といった紙以外の素材を加工する分野に挑戦したことだ。それまでの製紙業界一辺倒という姿勢から加工業界という未知の世界へ敢えて踏み込んだ訳だ。この未知への挑戦が成功したおかげで今日の明産があると言っても過言ではない。製紙業界の他にもう1本の大きな柱が建ったのだから。

 また同じ頃、平成13年(2001年)に印刷局小田原工場殿に銀行券精裁機を納めたことも大きな出来事だった。銀行券(いわゆる紙幣)は財布の中に入っているような1枚ずつの姿で印刷するのではなくて何枚かをまとめて印刷する。そのために大きなロール紙を印刷機に掛けるサイズに精度良く断裁する装置が必要だ。我々が開発した装置は、ロールの開巻から自動紙繋ぎ、張力制御、中心制御、スリッターによる分割、マーク断裁、集積、枚数チェック、スタッカーによる最終集積までを含む非常に大掛かりな一連の連続した装置だ。当時の製紙業界では殆ど採用されていなかったACサーボモータを使用したNCカッターの採用等、斬新な技術の塊であり、当社がそれまで蓄積していたノウハウの集大成でもあった。またこれを完成させたことによって得られたノウハウも多い。相当な苦労があったが最後までやり遂げたことは当社にとって大きな自信になった。

私だけが天皇陛下から直接お言葉を頂戴した。良い思い出だ。

木川:科学技術庁長官賞と黄綬褒章を授与されたと聞いていますが?

田原会長:私のもらった科学技術庁長官賞(科学技術振興功績者)は国産技術の振興に尽力した人に与えられる。私はNCスリッターの開発ということで平成12年(2000年)に頂戴した。

 黄綬褒章(おうじゅほうしょう)は業務に精励し衆民の模範たるべき者に授与されるとなっている。私は科学技術庁長官賞を受賞した翌年の平成13年(2001年)にこれを受賞した。どちらの賞も頂戴したのは私個人ではあるが私一人の力だけではなくて周りの方々の協力があっての受賞であり、大いに恐縮した。

 黄綬褒章受賞式の際、私は体調を崩していて車いすで宮中に参内したが車いすであったために私だけが天皇陛下から直接「早く健康になって下さい」とお言葉を頂戴した。良い思い出だ。

木川:ここからは、会長の個人的なお話を伺います。仕事観を聞かせて下さい。

田原会長:我々のように戦前、戦中、戦後を過ごして来た人間にとって仕事は神聖なものだ。「仕事をするためにパンを喰うのか?パンを得るために仕事をするのか?」と問われれば私は躊躇なく「前者だ」と答えることができる。仕事に対して我々はそういう価値観を持っていた。これは善し悪しの問題ではないし、君たち若い人たちにそれを強要するつもりもない。ただそんな仕事観を持った人間もいることを知っていてほしい。

木川:会長のように幼い頃からの夢を実現できた人は幸運ですね。

田原会長:そう、私は大変運が良かったと思っている。振り返れば悔いだらけの人生ではあったが非常に矛盾した言い方ながら満足感はある。それはそれぞれの場面で精一杯やったからだと思う。あれ以上はできなかったのだから。

木川:風光明媚なこの地がとても気に入っているとのことですが?

田原会長:戦時中に清水市(現静岡市清水区)に一度来たことがあった。その時に感じたことは「何と物が豊富なところだ」ということだった。明光製紙に移ってきた当初は私は単身赴任で来ていたが2年経たない内に家族全員を呼び寄せた。ここは富士山の麓で景色が良いのは勿論のこと、気候が穏やかで実に住みやすい。富士市のとなりの沼津市に一家を構えた。1男(現社長)2女を育てた。

木川:趣味は何ですか?

田原会長:自宅の敷地に温室を建てて蘭の栽培をしている。蘭は機械と同じで気むずかしいところがあるが真剣に面倒を見て愛情を注ぐほどしっかりそれに応えて美しい花を咲かせてくれる。そんな奥深いところが飽きない理由だと思う。

社会に役立つこと、それが会社も良くしていくことに繋がる。

木川:明産の今後に期待することは何ですか?

田原会長:当社のように工場設備を作っている会社は縁の下の力持ち的存在であり、一般の人たちの認知度は低いかも知れない。しかし我々のような会社がなければ一般の人たちの手元に届く最終製品も作れないわけだから堂々と胸を張って仕事をしてほしい。そして日々革新の精神を忘れず、現状に甘んずることなく世の中の動きに常に注目し、今後何が求められていくのかを把握してほしい。社会に役立つこと、それが会社も良くしていくことに繋がると確信している。君も大いにがんばってくれ。

木川:はい、分かりました。本日はどうもありがとうございました

当社創立者 田原義則は、平成27年5月6日に逝去いたしました。
ここに生前のご厚誼に感謝し、謹んでお知らせ申しあげます。

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